今年のNHK大河ドラマ「風林火山」が放送終了しました。
1561年、武田信玄軍と上杉謙信軍が信濃で戦った
第四次川中島の合戦で、武田信玄の参謀役を務めた
山本勘助が壮絶な戦死を遂げ、このドラマは終了しました。

私も結構見てました。土曜日昼の再放送か
日曜日BSで6時、NHK総合8時、第2放送10時・・・
いづれか・・・時には2回(^^;;

私がよく目を通すメルマガです。

ランチェスターで斬る
■信玄と謙信、川中島で勝ったのはどっち!?■


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━            両軍とも勝ったと主張
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戦いが終わり、武田軍は勘助の亡骸(なきがら)の前で
勝どきを上げます「エイ・エイ・オー!」と。

その頃、上杉軍の幹部は話し合います。
「あと一歩のところまで武田を追い詰めた。
 残念ながら信玄の首はとれなかったが、
 信玄の弟の武田信繁、宿老の諸角豊後守虎定、
 そして軍師の山本勘助を討ち取ったからには、
 この戦、我が軍の勝利」と。

戦国時代の名勝負No.1ともいえる川中島の合戦は、
古来「勝ったのはどっち?」との議論がさかんです。

信玄びいき、謙信びいきで見方は変わりますが、客観的には
両軍の損害量、すなわち戦死者の数は
双方とも3,000名~4,000名であったといわれています。

果たして、川中島の合戦、勝ったのはどっちだったでしょうか?
歴史に疎い方のために、どういう戦いだったのかを紹介してから
私の意見を披露しましょう。

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 第四次川中島の合戦
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甲斐の武田信玄は信濃に侵攻、
1553年、村上義清ら信濃の豪族は信玄に領地を奪われ、
越後の上杉謙信に助けを求めた。

これに応じた謙信は、同年より1564年までの12年間に5度、
信濃の川中島に出陣し、信玄と激戦を展開した。

これが世に名高い「川中島の合戦」である。

5度のうち、もっとも激烈をきわめたのが、
1561年、第4次川中島の合戦であった。

謙信は総勢18,000人、内5,000人を善光寺に残し、
自ら決戦兵力13,000を率い、千曲川を渡って妻女山に陣を構えた。
謙信得意の電撃作戦であった。

一方、信玄は20,000の兵を率いて出陣、海津城に入った。

両軍にらみあいの後、信玄の軍師・山本勘助が
兵を二分し、敵に気づかれないよう迂回、前後から挟撃するという、
世に有名な「啄木鳥の戦法」を提案。

武田軍別働隊10,000が妻女山を奇襲し、
謙信が八幡原に出てきたところを、
武田軍本隊8,000が待ち伏せて全滅させようというものであった。
信玄はそれを採用、別働隊10,000人を迂回させながら
妻女山を目指させた。
啄木鳥が木の中の虫を食べるのに、木をつつき、
虫が驚いて出てきたところをパクリと食べること
から名づけられたという。

しかし、謙信はそれに気づいた。

信玄の別働隊が到着する前に妻女山を降り、
兵13,000で八幡原の信玄本隊8,000を急襲。
次々と予備戦力を投入し、寡兵の敵を休ませない
「車懸かりの戦法」で攻めたてた。

信玄も敵を包囲殲滅する「鶴翼の陣」を張って応戦したものの、
戦力差から大苦戦。
信玄の弟の武田信繁、宿老の諸角豊後守虎定らが次々と戦死。
信玄の嫡男の義信も負傷した。

そして、総大将・信玄には謙信が一騎討ちを仕掛け、
3度、斬りつけ、7箇所の刀傷がついたという
「三太刀七太刀」の伝説が残る。

武田別働隊が到着すれば、武田軍が上杉軍を挟み撃ちにできる。
それまで、なんとか時間を稼がなければ、
と軍師・山本勘助が敵軍に突入。
壮絶な討ち死を遂げるとき、勘助の目に映ったのが武田別働隊の旗印。
「間にあった、お味方、勝利」を確信し、
その死顔は笑顔であったという。

武田別働隊の到着で、武田軍は優勢に転じた。
謙信はこのままでは挟み撃ちによる全滅の可能性ありと悟り、
兵を引いた。

武田軍には上杉軍を追撃する余力は残っていなかった。
両軍ともに戦死者3,000人~4,000人を出したといわれる大激突であった。

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 戦略的な勝者と戦術的な勝者、そして大戦略の勝者は?
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損害の量は互角、
損害の質は大物を多く失った武田軍のダメージが大きい、
という結果ですが

果たして、どちらが勝ったといえるでしょうか?

勘助の「啄木鳥の戦法」は謙信に見破られました。
その結果、上杉軍13000対、武田本隊8000の戦いになったことが
武田軍のダメージをより大きなものにしました。

ですから、戦術的には、敵の戦術を見破って、
敵に大きなダメージを与えた上杉軍が勝ったといえるでしょう。

★戦術的に勝ったのは上杉軍です。

しかし、そもそも、この戦、どんな軍事目的のために戦ったのか
を確認した上で、結論を求めるべきでしょう。

「目的はパリ、目標はフランス軍」という有名な言葉がありますが

川中島の合戦の上杉軍の軍事目的は
武田が実効支配する北信濃地区を村上氏ら
元の支配者に取り返してやることです。

武田軍の軍事目的は
上杉軍から北信濃地区を守り、支配権を確固たるものにすることです。

上杉軍、武田軍のどちらが目的を達したのか、
それは、いうまでもなく武田軍ですね。
戦いが終結したときに、戦場に残っていましたから、
上杉軍を撃退したといってよろしいでしょう。

★軍事戦略的に勝ったのは武田軍です。

ただし、武田家、上杉家の国家目的は何だったかを考えると
武田家は上洛し天下に号令する天下統一が国家目的でした。
上杉軍は関東管領職として東日本を統一することが国家目的でした。

どちらも、国家目的は果たせませんでした。

両雄が信濃で覇権を競っている間に
弱小だった尾張の織田信長が上洛し、天下人への道を歩み
その後継の秀吉・家康が天下統一を果たします。

★国家目的を果たす「大戦略(グランド・ストラテジー)」的には
武田も上杉も負けたといわざるを得ません。

勝ち負けは考える次元によって異なるものです。

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